
陳水扁総統が「白色テロ政治受難者記念碑」竣工式に出席
陳水扁総統は3月27日、呂秀蓮副総統とともに総統府前ケタガラン大通りの傍に建立された「白色テロ政治受難者記念碑」竣工式に出席した。以下は、竣工式において陳総統が語った内容の要旨である。
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過去の独裁政権は1949年にはじまり、台湾で38年間にわたる戒厳令を敷き、この間に数多くの人々が言われなき罪で逮捕、拘禁、拷問、凌虐、さらには銃殺された。『100人間違って殺しても、1人を逃がすな』という恐怖の空気の下、台湾社会の至るところにまで、台湾の人々は悪夢を拭い去ることができず、台湾社会の発展に重大な影響を与えた。これが『白色テロ』である。
第二次大戦後、多くの国々で自国の歴史の反省をはじめ、人々を虐殺した元凶を制裁し、民主主義と法治のシステムを確立し、基本的人権と普遍的価値観を尊重することは、世界の潮流と趨勢になった。しかし、台湾は1987年の戒厳令解除の後になって、ようやく公開の場でこの歴史の探求がはじまったのである。続いてさまざまな社会運動が起こり、国民がより多くの公共活動に参加する機会を持つようになり、民主化のスピードが加速した。戒厳令解除から20年後、台湾はすでに真の自由と民主主義の国となり、国民のさまざまな権利は法的な保障が受けられるようになった。
しかしながら、過去の歴史とそれがもたらした傷に対して、われわれは真剣に向かい合い、積極的に処理し、歴史の真相と正義への転換を追求しなければならず、また社会の調和と安定を兼ね備えて考慮しなければならない。いまに至るまで、政府は「戒厳時期不当叛乱およびスパイ審判案件補償基金会」を通じて受理した補償案は8,462件に達し、補償が認められたものは6,808件、補償金の累計金額は187億0550万元(約620億円)であり、3,543人の名誉が回復された。
金銭補償や名誉回復、または追悼式典の開催、記念碑の建立等は、受難者と遺族、社会全体にとって、いずれも心が洗われるものであり、再生と再建の過程であり、引き続き民主主義を進化、強固する力の源泉となっている。歴史の真相を取り戻し、教訓を汲み取ることのみが、悲劇の再現を回避することができるのである。
ケタガラン大通りの傍らにあるこの記念碑は、捕らえられ、殺された無辜の青年同胞を追悼するだけでなく、あの暗闇の中で泣いていた母親と妻子、さらにはあのとき声を発することができず、ただ傍観することを余儀なくされた数十年の年月をも記念するものである。記念碑は国家権力の最高の象徴である総統府を望み、いつでもわれわれに民主主義と人権保障の重要性を堅持し、国家機関の権力バランスを守るよう、権力の濫用によって国民を傷つけたり、社会を傷つけ、容易には得られない民主主義の成果を傷つけることのないよう語りかけるものである。
記念碑の近くにある「自由広場」は、この2週間、毎晩ロウソクを点して祈祷し、吟唱し、中国共産党からの暴力を受けているチベットの人々に声援を送っている人がいる。ここに皆様が普遍的人権のために立ち上がり、積極的に関心を示し、チベットの人々に温かい気持ちを捧げることをお願いしたい。また、中国北京当局は暴力の使用を放棄し、平和的対話を通じて問題の解決をはかるよう呼びかけたい。なぜなら、われわれの中の一部が傷ついたら、それは全体にとっての傷だからである。人類という大家庭の一員として、われわれには責任があり、また当然ながら一人一人の人権と尊厳を守る義務がある。
ボストンに建立されているある記念碑には、第二次大戦後にナチスのユダヤ人虐殺の歴史教訓を記したドイツのマルティン・ニーメラー牧師の詩が刻まれている。
――ナチスが共産主義者を殺しはじめたとき、私は共産主義者ではなかったので、何も言わなかった。
――続いて、ナチスはユダヤ人を殺したが、私はユダヤ人ではなかったので、何も言わなかった。
――後に、ナチスは労働組合員を殺したが、私は労働組合員ではなかったので、何も言わなかった。
――そのあと、ナチスはカトリック教徒を殺したが、私はカトリック教徒ではなかったので、何も言わなかった。
――最後に、ナチスは私のところにやってきたが、もう誰も私のために声を上げてくれる人はいなかった。
積極的に行動し、民主主義を堅持し、人権を守ることこそが、最もよい追悼となるのである。
【総統府 2008年3月27日】