呉敦義・中華民国(台湾)第13代副総統のプロフィール
呉敦義は1948年に台湾中部の南投県草屯鎮で生まれた。38年間の公職生涯と豊富なリーダーとしての経験を持ち、最近では行政院長(首相)、立法委員(国会議員)、中国国民党中央委員会副主席兼秘書長(幹事長)などを務めた。呉敦義は長年にわたり、明快な決断力で定評があり、民衆の実際の要望や期待を正確に把握し、政策決定に反映している。
早年時代
呉敦義は国立台湾大学歴史学科に在学中、頭脳の明晰さと、感情表現能力がずば抜けていた。1968年~69年に台湾大学内の『大学新聞』編集長と発行人を務めていたときに書いた文章が当時、後に総統となる蒋経国・救国団主任に高く評価され、招かれて面会した際に、「人々のために、国のために奉仕しなさい」と激励された。
呉敦義は蒋経国先生からの励ましの言葉を胸に刻み、1970年に台湾大学を卒業し、兵役を終えてから『中国時報』に入社し、1971年~73年に記者を務め、報道の正確さと洞察力のある評論で名を知られるようになった。25歳で台北市議員に当選し、当時の最年少議員の一人となり、中国時報の社説の主筆も兼任し、時事評論を発表した。
台北市議員時代
8年間議員を務めていた間、呉敦義は厳格な道徳基準を自己に課し、またその他同僚議員、公務員にもそれを求めた。例えば当時、台北市政府の職員が不正を働いた際、呉敦義は「公務員が法令を曲解すれば、人々の権利が損なわれ、その罪は汚職よりも悪質だ」と厳正に強調した。呉敦義は一貫した政治姿勢を堅持し、『資治通鑑』から引用し、「官吏が法を犯しても法は生きている。官吏が法を蹂躪にすれば法は死んでしまう」と述べた。後に総統となる当時の李登輝・台北市長は、その場で呉敦義の意見に賛成し、不正を働いた職員を処罰した。
南投県長・高雄市長時代
呉敦義は南投県長(知事)(1981年~89年)、高雄市長(1990年~98年)の在任中、積極的に民意に耳を傾け、民間の問題を解決する行政手腕を発揮した。毎週一日「県(市)民の時間」を設け、陳情を受け付け、県(市)政府が応えきれていない民衆の苦しみを解決するため、呉敦義が自ら判断し、明快に決断したことは広く肯定的に受け止められた。
呉敦義は直接、同僚や市民らと交流を持つことを望み、ときには特に重要なテーマについても、自ら住民らとの意思疎通を通じて解決を図った。この方法は、公園、大学、病院、ゴミ焼却炉、上水道や下水道等の重要なインフラ建設を推進する際に非常に効果的であった。
行政院長(首相)時代
呉敦義は行政院長在任中(2009年~12年)、経済振興、モーラコット台風水害の復興、H1N1新型インフルエンザの感染予防等、一筋縄ではいかないテーマにおいても卓越した処理能力を発揮した。国民の福祉を向上させる決意を示すため、呉敦義は内閣の主要施政目標として、国民が安全で、明るく、健康的に、なおかつ経済発展の成果を全国民が分かち合える生活環境の構築を掲げた。
在任時の後半、呉敦義は政府各部門が全力で雇用機会、給与水準の向上、購入しやすい住宅の提供増加、青年が家庭を持つためのサポート、お年寄りの介護の改善、貧富の格差縮小などに取り組むよう指示した。呉敦義はこれらの目標を達成するためには、台湾が気候変動による天災の頻発、国境を越える死に至るウイルスの拡散、グローバル金融体系の不安定等の国際危機から逃れることができないと痛感し、政府各部門に地球の時勢変化の把握に努めるよう求めた。
総統選挙
2011年半ば、呉敦義は馬英九総統から共に選挙を戦うパートナーとして招かれ、国民党を代表して正副総統選挙に出馬し、2012年1月に大きな差をつけて勝利を果たした。呉敦義は副総統に正式に就任する前、「財団法人両岸共同市場基金会」最高顧問として2012年4月に中国大陸海南省で開かれた「博鰲アジアフォーラム」に出席した。会議の中で、呉敦義はアジア各国の指導者らといかにして地域経済を健全化し、持続可能な発展を築いていくか、意見交換した。
副総統時代
呉敦義は2012年5月20日に中華民国第13代副総統に就任する。呉敦義は豊富な公職の経歴を持ち、今後も引き続き国民の福祉に全力を注ぎ、総統を補佐し、国際競争力を向上させ、台湾の国際社会における国家利益が増進されるよう取り組んでいく。