外交部:日本政府に対し、釣魚台列島の主権を侵犯する一方的な行為の自制を要求
日本政府が9月10日に関連閣僚会合を開き、釣魚台列島の「国有化」を議論することに関して、外交部は日本政府に対して、台日双方の協力関係を損なうことおよび東アジアの緊張情勢の激化を回避するため、釣魚台列島の主権を侵犯する一方的な行為を慎むよう明確に要求した。
釣魚台列島は中華民国固有の領土であり、台湾の付属島嶼である。その行政区画は宜蘭県頭城鎮大渓里に属する。地理、地質、歴史、使用、国際法のいずれの観点からも、釣魚台列島の領有権が中華民国に属することに疑いの余地はない。
事実上、日本政府が釣魚台列島の領有権を主張し、「国有化」することに、歴史的、法的な根拠はまったくない。その理由は以下の通りである。
一、日本は釣魚台を「無主の島」と主張しているが、先占については、中国が明朝時代の1403年(永楽元年)の「順風相送」の書物が初めて釣魚台列島について言及している。しかも、18世紀および19世紀の国内外の地図はいずれも釣魚台列島を中国の領土として表記している。また多くの歴史文献からも釣魚台列島はわが国の先人が最も先に発見、命名、使用し、国土に編入し、無主の島などではなかったことが証明されている。現存する日本外務省外交史料館、国立公文館、防衛省防衛研究所図書館の関連文書によると、1885年(明治18年)より、日本政府は釣魚台列島の侵略・占領を企て始めた。1885年に日本政府は釣魚台列島に「国標」を設置するために調査を密令した。しかし、沖縄県令の西村捨三に機密文書で、これらの島嶼は中国が命名し、しかも長年使用され、歴史書にも載っており、「国標」を立てるのは適宜ではないと報告し、設置延期を建議した。当時の井上馨・外務卿は、極秘文書である「親展第38号」の中で、「すでに清国が各島を命名している」と指摘した。明治政府は自己の力不足を認識し、「他日の機会に譲る」ことと決定した。以上の考慮から、内務・外務両卿は、1885年12月5日に、沖縄県に対して「国標」の設置を暫時取りやめるよう指示した。当時、福岡の古賀辰四郎が釣魚台の開発を申請した際には、それが却下されている。このことから、日本人は釣魚台列島を略奪する意図を持ちながらも、この列島が清朝の所有であることを認識しており、その当時の国力が足りなかったことから併合を一時的に延期していたことが明らかである。
二、1895年1月14日、日本の内閣は甲午戦争(日清戦争)の勝利が確実となったことに鑑み、「今と昔は状況が異なる」との理由で、秘密裏に沖縄県が釣魚台に「国標」を設置することを承認した。これにより日本は釣魚台列島を略奪的に占拠した。ところが、日本政府によるこの行動は正常なプロセスに基づくものではなかった。天皇による勅令またはいかなる公的機関からの公告の方式で発布されることはなく、しかも外部はそれを知ることもできなかった。これらのことから、日本政府が釣魚台列島併合の決定は、甲午戦争戦勝後の国際法に違反する侵略行為である。なぜなら当時の釣魚台列島は清朝の領土であり、台湾省の噶瑪蘭庁(いまの宜蘭)に属しており、日本が言うような「無主の地」などではなかった。さらに、日本の占拠行動が天皇の発布する勅令により世界に宣言する手続きに基づかず、外部にはわからないようにしていた。したがって、このような「略奪的な占拠」は国際法上は「最初から無効」であり、当時の清朝を拘束することはできず、ましてや現在の中華民国を拘束することなどできない。文献によると1896年に日本の民間人の古賀辰四郎氏が日本政府に釣魚台列島の租借を申し入れた際、その履歴書の中に「皇国大捷の結果、台湾島は帝国の版図に帰し、尖閣列島亦我が所属たること」と記述していた。このことからも、日本が最も直接関係する民間人もが日清戦争の結果により日本が釣魚台列島を獲得したと認識していたのである。
三、釣魚台列島は台湾北東部の漁民の百年以上前からの大漁場である。日本統治時代、日本の台湾総督府は1920年に正式に釣魚台列島の周辺海域を台湾漁民の「カツオ漁場」として画定していた。1925年に総督府が出版した『台湾水産要覧』においても釣魚台列島を台湾の「重要漁場」とする旨が再度公告された。
外交部は、日本政府またはいかなる政治人物がわが国の釣魚台列島の主権に影響を与えようとする不法な主張は一切承認しないことを、厳正に重ねて表明する。外交部は改めて、日本政府は自制すべきであり、釣魚台列島の領土問題が存在する事実を直視するよう呼びかけるとともに、関係各方面が共に争議を棚上げし、理性的な対話を通じて、東シナ海の資源の共同開発、地域平和の安定の維持を呼びかけるものである。
【外交部 2012年9月10日】