馬英九総統が「抗日戦争勝利70周年国際学術シンポジウム」開幕式に出席
馬英九総統は7月7日、国史館、中央研究院近代史研究所、国立故宮博物院などが共同主催する「戦争の歴史と記憶:抗日戦争勝利70周年国際学術シンポジウム」開幕式および抗戦史叢書発表会に出席し、中華民国の抗日戦争および第二次世界大戦と台湾光復(主権回復)の関係を説明し、政府は今後「中日和約」(日華平和条約)の中の協力と平和の精神および「事実のみを論じ、相手の身になって考え、恩と怨をはっきり区別する」の姿勢で、引き続き日本との関係を発展させていく考えを示した。
以下は、馬総統のあいさつの要旨である。
○ ○ ○
過去70年間、第二次世界大戦後の国共内戦、朝鮮戦争、東西冷戦が相次いで発生し、国際情勢が大きく変化し、中華民国の対日抗戦における血と涙および第二次世界大戦への貢献は、国際社会から見落とされがちだった。そこで、ここ20年の間に、1997年のアイリス・チャン(張純如)による『ザ・レイプ・オブ・南京(忘れられたホロコースト)』(原題:The Rape of Nanking:The Forgotten Holocaust of World War II)や2014年のラナ・ミッター(Rana Mitter)教授による『忘れられた盟友』(Forgotten Ally:China’s World War II, 1937-1945)など、「忘れられた」をタイトルに入れた重要な著作がいくつか発表され、抗日戦争の歴史が描かれてきた。また、最近では台湾紙『聯合報』でも『忘れられた戦事』が出版され、抗日戦争に参加した海峡両岸の老兵たちの物語を記録している。
ここ十年余りの間に、蒋介石・元総統やドイツ商人のジョン・ラーベ(John Rabe)の日記など、重要な歴史資料が次々と公開され、国際学術界においても中華民国の抗戦史研究がますます重視されてきており、長年の抗戦の史実がようやく忘れ去られることはなくなった。新しい歴史資料は新しい観点をもたらし、抗日戦争勝利70周年にあたる今、中華民国のこの戦争の歴史を回顧することは、特別な意義がある。
中華民国の8年間にわたる抗日戦争は国の存亡がかかった戦いであり、国際情勢にも深刻な影響をもたらした重大な歴史事件である。戦争の規模が大きく、時間も長く、死傷者の多さと影響の深さは未曾有のものだった。抗日戦争の期間、中華民国軍は装備が劣勢の中、日本軍と体当たりの苦戦を強いられ、22回の大規模な会戦、1,100回の重要な戦闘、3万9,000回の小規模な戦闘を経て、国軍は322万人の兵士が戦死した。268名の戦死した将軍のうち、上将が7人、中将が56人、少将が205人で、共産党軍が率いた八路軍の左権・副総参謀長もこの中に含まれる。無辜の民間人の死亡者数は2,000万人以上にのぼり、財産の損失も計り知れない額にのぼった。
中華民国の抗日戦争は軍事力の差が大きく、ほとんど勝算がない状況下であったが、決意は固く、決して投降せず、妥協せず、装備が現代化された80万人の日本軍を牽制し、日本軍を太平洋の戦場に完全投入できないようにし、間接的にオーストラリアやインドへ進攻・占領することを阻止した。当時の米国のルーズベルト大統領は、第二次世界大戦の勝利の鍵となったのは、中華民国が全力で対日作戦を堅持したことにより、日本とドイツが合流して戦場が一本の線でつながることが避けられたことであると述懐しており、これらは中華民国が第二次世界大戦における最終的な連合国の勝利に消すことのできない貢献を果たしたことを説明したものである。
1943年(民国32年)11月末、戦局が好転すると、当時の蒋介石・委員長は中国戦区最高統帥として、米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相とカイロ会議を開催し、12月1日に同時に『カイロ宣言』を発表した。ここには「満洲、台湾及び澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還すること」と明記され、日本の無条件降伏を求めた。1945年(民国34年)7月26日、当時のドイツはすでに降伏し、欧州での戦争が終結し、中華民国と米国、英国で『ポツダム宣言』を発表し、再び日本に降伏を迫った。その第8条には「カイロ宣言の条項は履行されなければならない」と規定された、同年8月15日、日本の天皇は『ポツダム宣言』を受け入れ、無条件降伏し、8年間にわたる抗日戦争は、最後にようやく勝利したのだった。9月2日、日本は東京湾において米国のミズーリ号の艦船上で『日本降伏文書』に調印し、正式に連合国軍に対して無条件降伏し、その中の第1段および第6段に『ポツダム宣言』を受け入れることが明記されている。
当時、在華日本軍については、1945年9月9日に南京で、10月25日に台北でそれぞれ降伏し、その後、中華民国は台湾での主権行使を開始し、翌年(1946年)1月に台湾・澎湖地区の住民の中華民国国籍を回復し、同時に選挙の実施を開始した。1952年(民国41年)4月28日、『サンフランシスコ平和条約』が発効する7時間前に、中華民国と日本は『中日和約』(日華平和条約)に調印し、中華民国が台湾で実質的に主権を行使している事実を再度確認した。これらは抗日戦争の勝利と台湾光復が密接に関連している最もよい証明となるものである。
過去数十年間、一部の人がたびたび『カイロ宣言』および『ポツダム宣言』は戦時中の政策的な文書であり、拘束力はないと主張していたが「それは完全な間違いである」。『カイロ宣言』は前述したように、『ポツダム宣言』に内容が吸収されており、『日本降伏文書』は『ポツダム宣言』の内容を受け入れると明記されている。したがって、この3つの歴史的な法律文書はすでに一体となっている。米国や日本政府が出版した条約集にもこの3つの文書が収録されている。さらに重要なのは、国連が出版した『国連条約集』にも『日本降伏文書』が収録されていることであり、中・米・英3カ国の元首が共同発表した文書および公約は当然ながら法的効力を持つものである。台湾、澎湖は日本による50年間の植民地統治を経て、ついに中華民国に復帰したことは、甲午戦争(日清戦争)の雪辱を晴らすものであり、その意義は深遠であり、影響は極めて大きかった。
中華民国政府は抗日戦争に勝利して2年目に、『カイロ宣言』、『ポツダム宣言』、『日本降伏文書』などの関連国際法文書に基づき、南シナ海の諸島礁の主権を回復し、海軍および内政部担当者を派遣し、各島で測量および石碑建立の作業を行った。「太平島」、「中業島」などは、当時接収作業を担当した主力艦艇から命名されたものである。そのうち、太平島は南沙諸島の中で最大の自然生成された島嶼であり、唯一淡水資源を持つ島嶼でもある。過去数十年にわたり、中華民国政府は島に太陽光発電システム、通信システム、病院、郵便局、埠頭、滑走路、農場などのインフラ施設を整備してきた。今後、中華民国は引き続き平和的に、太平島を国際人道支援、環境保護、科学研究の拠点として積極的に太平島の建設を推進していく所存である。
太平島は『国連海洋法条約』第121条の島嶼に関する要件を完全に満たしている。いかなる国も太平島が島嶼(island)である事実を否定しようとも、太平島の島嶼の地位を損ねることはできないのであり、『国連海洋法条約』ににある海洋の権利の享受に基づき、中華民国は海洋法等の国際法の基礎の上に、我々が享受すべき一切の権利を守っていく。
歴史は「事実のみを論じる」べきであり、遺族に対しては「相手の身になって考え」、基本的な姿勢は「恩と怨をはっきり区別する」ことである。2008年(民国97年)に総統に就任後間もなく、私は多くの抗日記念活動に参加する一方で、台南の烏山頭ダムに「八田與一記念公園」を開設し、1930年代の日本の八田與一技師が嘉南大圳および烏山頭ダムを建設した歴史を忠実に記録することも願っている。八田與一は1910年に来台し、嘉南平原の開発計画を立て、嘉南大圳と烏山頭ダムの2つの水利施設を建設し、嘉南平原を台湾の穀倉に変えた。対日関係において、何回も抗日戦争を記念し、慰安婦を支持すると、私は「反日派」と呼ばれ、八田與一の台湾農民への貢献を評価すると、私は「親日派」と呼ばれる。しかし、私はそのいずれでもなく、私は「友日派」なのである。なぜなら、「事実のみを論じ、相手の身になって考え、恩と怨をはっきり区別する」ことこそが、真の友人として付き合える道なのであり、このような原則こそが、中華民族と大和民族の間に真の大きくて末永い友情を構築することができるのである。
1952年の『中日和約』(日華平和条約)の一段目には、「その歴史的及び文化的の絆と地理的の近さとに鑑み、善隣関係を相互に希望することを考慮し、その共通の福祉の増進並びに国際の平和及び安全の維持のための緊密な協力が重要であることを思い、」とある。私は総統に就任以来、中華民国政府は『中日和約』の精神を引き続き発揚し、台日関係を「特別パートナー関係」と位置づけてきた。両国は1972年に断交してから今まで、58項目の協議に調印し、そのうち私の任期中には『台日投資協議』および『台日漁業協議』など25項目の協議に調印し、全体の43%を占めている。
2013年に日本が釣魚台列島(日本名:尖閣諸島)の「国有化」を宣言したことにより、中国大陸の20都市で大規模な反日デモが発生した。私はこの年の『中日和約』発効60周年にあたる8月5日に「東シナ海平和イニシアチブ」を提起し、関係各方面に「主権争議の棚上げ、資源の共同開発」を呼びかけた。その8カ月後、台日漁業協議が調印され、台湾漁民は台湾の面積の2倍以上の適用水域で、いかなる干渉も受けることなく操業できるようになり、双方の40年間にわたる漁業争議が解決した。これは「主権は分割できないが、資源は分かち合える」の理念の具体的な実践であった。米国のジョン・ケリー国務長官およびダニエル・ラッセル東アジア太平洋担当国務次官補、オーストラリアのデイビッド・ジョンソン国防相らはいずれも、公式に台日漁業協議が平和的に国際係争を解決するよいモデルとなったことを評価した。
2011年(民国100年)に台湾と日本は『台日航空協定』を改正し、双方は正式に「オープンスカイ」の時代に入り、往来便数および発着空港が大幅に増加した。昨年の台湾からの訪日旅行者数は約297万人であり、訪日外国人客のトップとなった。日本からの訪台旅行者数は約163万人であり、台湾を訪れる2番目に多い国となった。双方の往来者数の合計は460万人に達し、私が総統に就任前の250万人と比べて2倍近くに成長した。
現在、台湾と日本の関係は断交から40年余りの間で最良の状態となっており、これは中華民国が今年、抗日戦争勝利および台湾光復70周年の記念行事を拡大することに影響されることはない。私は「侵略の過ちは許せるかもしれないが、歴史の真相を忘れることはできない」と深く信じており、今後も政府は『中日和約』の協力と平和の精神と、「事実のみを論じ、相手の身になって考え、恩と怨をはっきり区別する」の姿勢で、台日関係の発展を推進していく所存であり、歴史に向き合い、未来を迎えたい。
【総統府 2015年7月7日】
写真提供:中央社