日本精神から見た志賀哲太郎と台湾
志賀哲太郎先生顕彰会
2018年2月25日(日) 戎 義俊
~はじめに~
中国の孔子様による儒教の一環として「温故知新」という教えがあります。日本においても「温故知新」という古来の知恵が生かされているという気がします。歴史に学んでそれを生かし、よりよい明日を創る。そのために私たちは歴史を研究して、それを体系的に整理整頓する。その結果として精度の高い、そして多面的な歴史という情報が大切な判断材料として引き継がれていく。人類として、国として、地域として、一族として「温故知新」するためには、志賀哲太郎と台湾に関する歴史を正しく理解し、新しい発見を生み出すことが大事です。
益城町が生んだ郷土の偉人、志賀哲太郎先生は、台湾では今日まで忘れられることなく語り継がれ、大変尊敬されています。「命を懸けて教育にあたる」勇気と責任感こそが、その最大の理由であります。しかし残念なことに、志賀先生のことは日本ではあまり知られておりません。本日の顕彰会の開催を機に、一人でも多くの日本の方に志賀哲太郎先生の偉業を知っていただきたいと思いますし、ひいては日本の皆様への啓発になれば誠に意義深いことであると思っています。
一、台湾は世界一の親日国家
(一)現在、日本と台湾との交流は大変良好です。昨(2017)年、日本を訪問した台湾人は456万5,873人、台湾を訪問した日本人は189万8,854人、合計で645万4,727人もの人的往来がありました。人的往来については、日本が正式な国交を持つ国との間でも645万人に達するところはありません。特に、ここ数年、訪日の台湾人は毎年50万人ずつ増えております。台湾の人口は2,300万人ですので、その割合から考えても、実に5人に1人が日本へ来たことになり、いかに両国が深くつながっているか、世界一良好な関係にあるかがお分かりいただけると思います。
数年前、台湾では九州専門の旅行雑誌「美好九州」が刊行され、九州旅行がブームになりました。特に、ここ熊本県は風光明媚なところが多く、温泉やグルメ、温かい人情など台湾からの観光客を魅了してやみません。私も5年前に福岡に着任して以来、こちらの益城町をふくめ熊本県を110回ほど訪問しております。どこを何回訪れても素晴らしい場所ばかりで、熊本の皆様には大変お世話になっております。
台湾人の日本旅行の人気はもとより、日本の皆様による台湾旅行も大変な人気です。ここ数年の日本人の海外旅行先ランキングでは、台湾は常に上位に入っています。順調な交流は観光だけではなく、経済・貿易・音楽・芸術・学術・スポーツ・ホームステイ・修学旅行などあらゆる分野での交流がスムーズに行われており、このように良好な友好関係を築くことができているのも、お互いに好感を持ち、お互いに信頼し合っている証(あかし)であると心から嬉しく思っております。私が着任した年(2013年)、人的交流は350万人を初めて突破しましたが、2015年は530万人、2016年は619万人、2017年は651万人と増加の一途をたどっており、東京オリンピックが開催される2020年には700万人を超えると見られています。
次の世代に相互認識・相互理解を推進するために、私が約5年前に着任してから一番力を入れて進めてきた仕事は日本の高校生の台湾への修学旅行です。これまでに3回の修学旅行セミナーを開催し、九州山口における修学旅行生の数は、2014年に12校・1200名だったものが、2015年に19校・2200名、そして2016年は30校・5000名、2017年は40校・7000名になりました。実施した高校の先生方からは、現地の高校生との生きた交流を通して大変良い教育旅行となっているという話も聞かれます。
2018年1月に「全国修学旅行研究会」が発表した最新データ(2016年度分)によれば、日本全国における台湾への修学旅行は262校・4万1,878名で、校数、人数ともに米国(ハワイ・グアム・サイパンを含む)を抜いて第1位でした。10年前(2006年度)の3,552人と比べて約11.8倍に増えた背景として、台湾は親日的で心配なく旅行ができること、地方都市に直行便の就航が増え利便性が高まったことなどが挙げられています。
こんなに大勢の台湾人が日本に来たがるのは、美しい景色や美味しい食べ物を求める物見遊山だけではないと思います。本日お話しする“台湾に残された「日本精神(ジップンチェンシン)」”が台湾人の家庭で親から子へ、子から孫へと刷り込まれた結果、第二の故郷を訪ねて心を癒したいという潜在的な気持ちがあるのではないかと思います。
(二)よく台湾は世界一の親日国家であるといわれますが、その理由のひとつとして“報恩”があげられると思います。日本統治時代といわれる1895年からの1945年までの50年間、かなりの日本人が麗しき島(フォルモサ)と呼ばれていた台湾に渡りました。九州からも教師・技師・医師など2万人あまりの人々が台湾へ渡り、教育をはじめ、鉄道、港湾、道路、上下水道などの基本的なインフラ整備に尽力し、台湾を近代化の道へと導いたといわれています。特に熊本からは教師として台湾に渡った方が多いようです。自らを顧みず犠牲になった日本人も少なくありません。益城町の偉人、志賀哲太郎先生もそのお一人です。そのような日本人が「日本精神」をもって台湾に遺した功績を台湾の人々は忘れておらず、“たとえ一滴の水でも受けた恩義は湧き出る泉として恩返しをする”という「滴水之恩,湧泉以報」の気持ちを持ち続けているのです。
二、明治維新と台湾
(一)今年は明治維新150年にあたりますが、明治維新と台湾は密接な関係性があるということに気付きました。1868年の明治維新以来、日本は欧米列強に引けをとらない近代国家樹立に全力を傾け、やがてそれを成し遂げましたが、その過程における日本統治の50年というのは明治・大正・昭和にかけてのことです。
いうまでもなく、明治は近代日本の事始めであります。台湾は明治時代の日本と同じ歩みを進めてきたのだと思いますし、台湾での西洋化のプロセスは日本からもたされたものだと思っています。また、日本は、欧米の植民地政策とはまったく違う政策を台湾に施し、むしろ植民地を内地化するような諸策を打ちました。
1895年から1945年の台湾における日本統治では、50年間で19人の総督が任命されましたが、中でも、台湾近代化の基礎づくりを推進したのが、第4代総督(1898年~1906年)の児玉源太郎と民政長官に後藤新平でした。後藤新平はドイツで医学を学んだ医者でしたから、生物学の観点から、日本国内の法制をそのまま文化・風俗・慣習の異なる台湾に持ち込むことは困難であると考え、台湾の社会風俗などの調査を行なった上で政策を立案し、漸次(ぜんじ)同化の方法を模索するという統治方針を採用し、金融・財政・治安・衛生などの制度確立、道路・鉄道・上下水道・ダムなどのインフラ建設に邁進しました。
日本は搾取するどころか「文明」を台湾に輸出して台湾を文明社会につくり上げました。あるいは武士道や明治の精神をはじめとする様々なこと、いわゆる「日本精神」を台湾に伝えました。日本統治の50年にわたって、その影響は台湾人生活の隅々にまで浸透してしまったと言えます。たとえば、内地に東京帝国大学を建てたように台湾にも台湾帝国大学を設立しました。これは搾取型である欧米の植民地政策ではありえないことです。
ある意味、台湾人は日本統治時代に「日本人になった」といっても過言ではありません。台湾に生まれ、日本統治時代を経験した台湾の「日本語世代」は、明治維新とその後の日本の近代化が台湾にもたらした恩恵は非常に大きいと評価しているのです。
(二)日本による台湾統治が始まって、まず日本が必要としたことは、台湾の人々への日本語の教育でした。日本は1895年4月に台湾総督府を開庁し、そのわずか3ヵ月後の7月に、「教育こそ最優先すべきである」として、日本全国から集められた優秀な志ある6人の教師により、台北・士林の芝山巖というところに最初の国語学校(日本語学校)「芝山巖学堂」を開校しました。
芝山巌付近の台湾人有力者の子弟を生徒として、日本語教育はスタートしましたが、翌年1896年の1月1日に6人の日本人教師(※「六氏先生」)と1名の用務員がゲリラの襲撃を受け命を落としました。当時の台湾では日本統治への反対勢力による暴動が頻発しており、周辺住民は教師たちに繰り返し避難を勧めていましたが、彼らは「芝山厳学堂」を離れず、死を覚悟した上で教育者として説得にあたることを選んだといいます。
※亡くなった6人の教師(「六氏先生」)
・楫取道明(山口県出身38歳)―吉田松陰の甥
・関口長太郎(愛知県出身37歳) ・中島長吉(群馬県出身25歳)
・桂金太郎(東京都出身27歳) ・井原順之助(山口県出身23歳)
・平井数馬(熊本県出身17歳)―熊本県濟々黌(せいせいこう)出身
―― 彼らは「六氏先生」と尊称され多くの人から敬(うやま)われている。芝山巖は台湾教育発祥の地とされ、「六氏先生」の慰霊碑には、今も献花が絶えない。
三、益城町が生んだ大甲の聖人・志賀哲太郎
(一)熊本から台湾へ
「六氏先生」の事件により、日本による教育が中止されることはなく、益城町出身の志賀哲太郎先生は同じ年の12月に台湾に渡りました。日本統治がはじまってわずか1年後のことです。その頃の様子を志賀哲太郎顕彰会会誌から紹介しますと、「志賀が台湾に渡ったのは台湾領有の翌年の明治29(1896)年、30歳の時だった。台湾語習得の目的を兼ねて台北で酒店を営業するがうまくいかず、その後大甲近くの伯公坑で同郷河内村出身の島村(しまむら)袖(そで)を雇い、台湾縦貫鉄道の御用商を営んだ。ある夜、土匪(抗日ゲリラ)の襲撃に遭い、財物は取られ、危うく命を落とすところであったが、袖の機転により助かった。しかし、マラリヤにかかり危篤に瀕し、担ぎ込まれたのが大甲の鎮瀾宮(ちんらんぐう)の陸軍病院であった。九死に一生を得た哲太郎は袖の看病を受け療養につとめた。療養中に教員採用の募集を知り、弁務署で面接を受けて明治32(1899)年大甲公学校(小学校)の代用教員として着任した。当時の大甲公学校は文昌帝君を祀る文昌祠を使用し、志賀は文昌祠西側の一室を借りて住居とした。」
「台湾では当時、就学率が低く教育に対する理解が浅かった。このため開校当初の児童数は十数名であり、その中でも卒業したのは明治37年次には4名だけという状況であった。哲太郎は、学齢期の子供のいる家や、せっかく入学しても休んでいる子供の家を、一軒一軒足繁く訪ねて廻った。」「貧しい家の子には文具を買って与え、病気になれば菓子や絵本を持って見舞い、学費を払えない生徒には身銭を切ってこれを補助した。」「彼の熱意と愛情と誠心が大甲の人々の心に溶け込んで、大正期には生徒数も着実に増え、1923(大正12)年度の卒業生は百名に達した。出席率も県下一となり進学率もぐっと高まった。」
―熊本が生んだ大甲の聖人“志賀哲太郎”会誌より抜粋
(二)「日本精神」を体現した哲太郎
まだ教育制度も定まっていない中、台中の大甲に縁を得、開設されたばかりの大甲小学校の代用教員となった哲太郎は、熱意と愛情をもって教育の重要さを説いて回り、転勤することのない代用教員の身分を自ら選択し、26年にわたり大甲を離れることなく、大甲子弟の教育に半生を捧げました。日本人も台湾人もお互いに尊敬し友情を深めるべきとして、「人権尊重」「公平無私」の態度で、献身的に初等教育に取り組み、大甲民に向き合ったのです。また、哲太郎は、知識の伝授だけでなく“礼儀”や“時間の観念”など自らが身をもって範を示し、まさに哲太郎の生き方そのものが本日のテーマである「日本精神(ジップンチェンシン)」を体現したものであったといえるでしょう。「勇気」「忠誠」「勤勉」「奉公」「自己犠牲」「責任感」「遵法(じゅんぽう)」「清潔」といった日本の精神をもって生涯を貫いた哲太郎は常に住民と暮らしを共にし、住民や子弟から慕われていたといいます。
(三)文昌廟に祀られる「大甲の聖人」
しかし、明治末期から大正時代に入ると、教育を受けた台湾青年たちが急速に民族運動に目覚めてきました。民族運動はやがて大甲にも広がり、公学校生徒の保護者や卒業生、台湾人教師などによる解放運動が見られるようになりました。総督府の一官吏でありながらも、常に教え子の立場に立ち続けた哲太郎は、とうとう教職の身分を解かれてしまいます。教え子との師弟愛が深ければ深いほど葛藤と苦悩は深まり、ついに自ら死を選んでしまうのです。まさに台湾子弟の教育のために身を捧げたのであります。59歳の時でした。
哲太郎の遺言は次の通りであります。
一、自分の遺体は台湾式の土葬にすべし
二、書物はすべて大甲街民に寄付すべし
三、遺産は女中ソデに給えるべし
教え子のみならず大甲民は皆、先生の死を悼み哀しみました。葬儀の日には、住
民・教え子はもちろん何のゆかりもない路地裏の人々までもがその死を悼み、手厚く葬られました。哲太郎の葬送の列は1キロメートルに及び、大甲民はまるで神様に礼拝するが如く、道ばたに線香を立て、供物を並べ、哲太郎を見送り、大甲の街全体が喪に包まれたといいます。
教え子の手によって、大甲を見下ろす鉄砧山南麓に祀られた哲太郎の遺徳はその後も語り継がれ、現在においても“大甲の聖人”として大甲民から慕われ尊敬され続けています。1966(昭和41)年には、世界中から哲太郎の教え子が集まり、「志賀先生生誕百年祭」が行われました。哲太郎の墓の周りには教え子の墓、島村袖の墓、そして百年祭を記念して建てられた顕彰碑が並んで立ち、その墓前には今でもお参りの人が絶えません。
2011(平成23)年12月、大甲区役所は、「志賀先生がかつて大甲公学校で教師として26年間にわたり1000人余りの台湾学生を教え、台湾各界に多大な貢献を残した」として、哲太郎を大甲の「文昌廟」に入れることを決めました。「文昌廟」とは、学問の神様(=文昌君)が祀られている場所であり、ちょうど日本の太宰府天満宮に学問の神様とされる菅原道真公が祀られているような存在です。また、哲太郎がかつて住居としていた「文昌廟」西側の一室は「志賀哲太郎紀念室」となり、哲太郎の偉業を紹介し、後世に伝えています。哲太郎は大甲の聖人、まさに神様として大甲民から崇められ、今でも遺徳が慕われているのです。毎年4月には大甲区役所主催の慰霊祭も行なわれています。
四、日本精神は台湾に遺された
(一)1895年から1945年までの日本統治時代の遺産は、ダムや鉄道などの物質的なものだけではありません。常に「公おおやけ」を考える道徳教育などの精神的な遺産です。台湾での教育は知識の伝授と共に、精神的な支柱として、嘘をつかない、不正なことはしない、自分の失敗を他人のせいにしない、自分のすべきことに最善を尽くすという「日本精神」が教え込まれました。「日本精神」の浸透によって治安が良くなり、安心して生活が出来る社会が実現したのです。
「日本精神」の中には、勤勉、進取の精神、強い責任感、法を守ること、人を思い
やって和を尊び、忍耐することなどが含まれています。
1、「和」→協調・根回し
2、「公」→公に己を捧げる・滅私奉公
3、「忠」→忠誠心・愛国心
4、「義」→義理人情に厚い
5、「勤」→勤勉性
(二)「六氏先生」や「志賀哲太郎先生」のように、「命を懸けて教育にあたる」勇気と責任感は、教育者としての模範とされ、戦前の日本人の象徴的存在として敬われています。この「勇気と責任感」こそ、日本人が台湾で尊敬された最大の理由であると私は思っています。「日本精神」というものを究極にするのならば「勇気と責任感」に集約されるのではないかと常々思っています。
「夫(そ)レ教育(きょういく)ハ建国(けんこく)ノ基礎(きそ)ニシテ、師弟(してい)ノ和(わ)熟(じゅく)ハ育英(いくえい)ノ大本(たいほん)タリ」(夏目漱石)
教育は国づくりの根幹であります。台湾の諺に「十年樹木、百年樹人」(樹木を育てるには10年、人を育てるには百年かかる)というものがあり、人材育成の重要性が語られています。台湾近代化の基礎づくりをした民政長官である後藤新平の座右の銘は、「金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生こそが上なり」。
まさに日本は台湾に人を残し、日本精神を残したといえるでしょう。
五、台湾人家庭における「口耳相傳」(口伝え)
台湾では、どのようにして、「日本精神」の良さが受け継がれてきたのでしょうか。それは『口耳相傳(こうじそうでん)』(口伝え)です。台湾全体の7割を占める台湾人家庭では、父母から子へ、祖父母から孫へと日本のことが脈々と語り継がれてきたといえます。日本の時代を知る台湾の「日本語世代」は(現在90歳以上)、自分達が学んだ「日本精神」を、自らの誇りとしてきました。日本の良いところを子や孫に聞かせ、祖父母や親からの愛情とともに口伝えで記憶に刻まれ、日本への親近感は自然に身についているといっても過言ではありません。台湾人は「日本精神」という言葉を使うことを好み、先ほど申し上げたように、勤勉や正直、約束を守るなどもろもろの善いことを表現する時に使います。そういった「口耳相傳」こそ、最も影響があり、強い効力を持つものではないでしょうか。
1994年の台湾映画に『多桑』という作品があります。年配の日本語世代をテーマ にしたこの映画は、実話を元に台湾で大ヒットしました。“多桑”と書いて“トーサン”、つまり日本語の“父さん”のことで、戦後世代の呉念真監督が日本語世代の父親を描いたものでした。日本びいきの父親の夢は、日本に行って皇居と富士山を見ることであるのです。日本の作家、司馬遼太郎氏は、その著書の中で「1945年に分離するまで、そこで生まれて教育を受けた台湾の人々が、濃厚に日本人だったことを、私どもは忘れかけている」(『台湾紀行』)と述べておられます。また、台湾の李登輝元総統(1923年生れ)は「22歳まで受けた教育はまだ喉元まで詰まっている」とおっしゃっているのです。
日本人は台湾に二つの遺産を残してくれました。ひとつは、近代社会の精神的基盤。もうひとつは、大和魂と明治の精神です。敗戦後の日本で忘れられてきたもの、忘れさせられてきたものが、むしろ台湾で綿々と語り継がれている事実に、日本人は目を向けなくてはなりません。
六、結び
私は2013(平成25)年4月に駐福岡総領事として着任して以来、機会あるごとに“台湾に残された日本精神”や、“日本精神こそが両国を結ぶ目に見えない強い絆である”ことについて日本の皆様にお話してまいりました。「日本精神」を体現し台湾の教育に命を懸けた益城町の郷土の偉人「志賀哲太郎先生」のことを、益城町の皆様の前で講演する機会を賜ったことを、とても光栄に思っております。ご関係の皆様とご来場の皆様に心から感謝申し上げます。
最後に、「恩返し」と「縁を大切に」という二つの事についてお話しさせていただきます。冒頭で述べましたように「日本精神」をもって台湾の発展に命をかけた方々に対する純粋な感謝の気持ち、それが「恩返し」です。本日は特に教育面において犠牲となられた「志賀哲太郎先生」と「六氏先生」の話しを致しましたが、その他にも道路・鉄道・上下水道・ダムなどのインフラ整備のために犠牲となられた日本人が大勢おられたことを忘れてはならないと思っています。
そして、「縁を大切に」といいますのは、私が常々、心がけていることです。縁というものは不思議で面白いものでございまして、人と人の関係だけでなく「縁は異なもの味なもの」・・・町と町、国と国というものも、何か一つのきっかけによって上手く結ばれるものでございます。私は、志賀先生が現代につなぐ、「大甲と益城町との強い縁」を感じずにはおれません。志賀先生を通じて、大甲と益城町は約120年も前からつながっているのです。益城町の皆様には、ぜひ台湾へ行っていただきたいですし、特に若い世代の皆様には修学旅行や研修旅行などの機会を作っていただき、大甲そして台湾を訪問していただきたい、そして台湾に息づいている「日本精神」を感じ、様々な体験や交流を通じてお互いを知ることで、未来の良好な関係の礎となる友情を育んでいただきたいと願っております。
本日は、大甲から町長をはじめ10名が益城町を訪問しておられますが、志賀先生によって結ばれた大甲と益城町の縁がさらに深まり、教育や文化を軸とした交流を通して友好関係を育んでいただきますよう心から祈念いたしまして、本日の講演の結びとさせていただきます。