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  釣魚台列島問題の形成過程(林泉忠・中央研究院近代史研究所副研究員) - 台北駐日経済文化代表処 Taipei Economic and Cultural Representative Office in Japan :::
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釣魚台列島問題の形成過程(林泉忠・中央研究院近代史研究所副研究員)

釣魚台列島問題の形成過程

林 泉忠
中央研究院近代史研究所副研究員

釣魚台問題の発端は、甲午戦争(日清戦争)中に日本帝国が秘密裏に釣魚台を「編入」した過程にある。その後、すでに併合した琉球諸島に加え、日本は「下関条約」でさらに台湾まで統治範囲を拡大し、これで日本列島から台湾までを結ぶ「第一列島線」の主要な部分を掌握することとなり、その間、中国は東シナ海に関与することができなくなった。ようやく第二次世界大戦の終結、そして台湾海峡両岸の分治を経て1960年代末に至ると、釣魚台列島の運命に大きな転機が訪れる。東アジアの秩序が再構築された1972年以降は、釣魚台問題は40年にわたって「棚上げ」されてきた。そして今日、中国と日本の国力が逆転する過渡期にあって、釣魚台列島は再び火種となった。不穏な雲に覆われてきた釣魚台列島の120年の歴史を、ここで時代を追って振り返る。

東アジアの近現代史において、2015年は振り返るべき重要な意義を持つ一年となった。この年は第二次世界大戦終結70周年に当たるとともに、日本による釣魚台列島占拠から120年目の年でもある。前者は、かつての日本帝国の野心に起因し、今日に至るまで多くの隣国の人々に掻き消すことのできない歴史的傷跡と記憶を残した。後者は、日本が不義の戦争の期に乗じ、釣魚台列島を秘密裏に「編入」したことが後の領土紛争へと発展し、今日の東アジア地域秩序問題の端緒となったのである。強調すべきは、前者と後者は完全に独立した個別の事件ではないことが、両者が二度の「中日戦争」と直接連動していることからもうかがえるという点である。両者は相前後して呼応する「歴史的連続性」を有するのである。

本稿では、120年にわたる釣魚台列島をめぐる論争の軌跡に焦点を当て、その争議の経緯を明らかにすることを試みる。歴史を顧みることで、21世紀の東シナ海および東アジア地域の平和構築への思索に少しでも役立てばと願うものである。

一、日本帝国台頭前の東シナ海

1870年代まで、東シナ海の情勢は概ね穏やかであった。台湾は清国版図内の台湾府であり、釣魚台列島は台湾の噶瑪蘭庁(現在の宜蘭県)の要衝であり(陳寿祺『重纂福建通志』「巻八十六・海防・各県衝要」)、琉球は中華世界システム(華夷秩序)の下の外藩とされていた。5世紀にわたる中琉関係史において、釣魚台列島は中国から琉球への主要な航路の目印とされ、早くも14世紀には中琉の友好的往来と東シナ海の平和維持の象徴であった。その頃、中国と琉球の間では釣魚台列島以東の「黒水溝(琉球トラフ)」を「中外之界」とし、この両者の間で領土紛争が生じることはなかったのである。それだけではない。アヘン戦争以降、欧米の船舶は頻繁に琉球を訪れていたが、1850年代に琉球と米、仏、蘭が相前後して三つの修好条約を結んだ際にも、領土紛争を引き起こすことはなかった。

1868年に明治維新が始まると、日本帝国は東シナ海を虎視眈々と狙い始め、それ以来、東シナ海は穏やかではなくなる。1874年、日本は3年前に台湾の恒春半島に漂着した琉球住民が殺害されたことを理由に台湾に出兵する。1879年、明治政府が武力による琉球併呑を強行すると、琉球エリートは清朝に支援を求めて奔走し、以後四半世紀にわたる復国運動が続く。1895年、日本帝国政府は自ら発動した甲午戦争(日清戦争)の勝利を見込んで、同年1月14日の閣議において、釣魚台列島を秘密裏に「編入」することを決議し、行政上「沖縄県」と改められた琉球に組み込むこととした。日本が武力をもって一方的に琉球を併合したこと自体が正当性に欠けるのであるから、それを基礎に秘密裏に釣魚台列島を占拠することの不当性は言うに及ばない。

二、日本による秘密裏の「台湾属島」踏査と『申報』

日本が秘密裏に釣魚台列島を占拠した過程を見ると、1972年以降の日本政府の「政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上…」といった言説との食い違いは多数見受けられる。

まず「再三にわたり」という表現が事実と異なる。さらに大きな矛盾は、釣魚台3島が「かつて清朝の統治を受けた痕跡はない」ことを「慎重確認の上」という点である。

実際のところは、1885年7月15日に、日本の内務大臣・山縣有朋は沖縄大書記官・森長義に対し、大東2島および釣魚台3島に「国標」を設置するよう密令を下した。これに対して9月22日、県令の西村捨三は、これらの島嶼は清国によって命名され、長年にわたり使用され、史冊にも記載されているため、調査後ただちに「国標」を立てることは妥当とは言えないとして先送りを建議した。

そこで山縣有朋は外務大臣・井上馨の意見を求めた。10月20日、井上馨は山縣有朋に宛てた極秘文書「親展第38号」において「清国は各島をすでに命名している」と指摘し、また日本政府も「近時、清国新聞紙等ニモ、我政府ニ於テ台湾近傍清国ノ所屬ノ島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説を掲載シ」として「他日の機会に譲る」ことを決定した。

上記の「清国の新聞」の一つに1885年9月6日の上海『申報』が挙げられる。同紙の記事「台島警信」には次のように記されている。「『文匯報』は高麗からの消息として、台湾東北辺の海島につき、近時、日本人が日本の旗を掲げたと報じている。大いに占拠の勢あり、いかなる意見か未だ知らざるが、とりあえずこれを記録し、以て後の聞を待つ」としている。当時の日本側の探査計画は大東島と釣魚台3島を対象としたもので、大東島は台湾の東北辺にはなく、琉球本島を隔てているため、「台島警信」が言うところの「台湾東北辺の海島」は釣魚台列島を指す。『申報』の同記事は以下の二つの点を示している点で意義がある。一つは、当時の中国社会が釣魚台列島を「台湾の属島」と認識していたこと、第二は、日本が台湾東北の島嶼に目をつけていることに注目し、これを「占拠の勢」として警鐘を鳴らしている点である。

井上馨は「清国の猜疑を招く」ことを避けるため、踏査に関して「官報并ニ新聞紙ニ掲載不相成候」とし、秘密保持を継続した。当時、日本のこの行為は領土問題に発展することはなく、清朝も日本との交渉の必要はないとした。ただ、後に李鴻章が北京で西太后に謁見した際、台湾に省を置き、中央が海軍事務部門を統括する旨の承諾を得たことから、このことの影響の大きさがうかがえる。

三、甲午戦争(日清戦争)と釣魚台問題の関係

甲午戦争(日清戦争)の勃発は、日本の釣魚台列島占拠にとって願ってもない契機をもたらした。1894年9月、日本の陸軍は平壌に進攻し、海軍連合艦隊は北洋艦隊を迎撃。10月に日本は勝利に乗じて中国域内に進攻し、九連城に続いて安東を制圧、そこからさらに遼東の後背地と半島に進攻した。11月には大連と旅順を攻め落とし、12月以降は山東制圧を狙い、威海衛を攻める機会をうかがい、北洋艦隊壊滅を企てる。その勝利を目前に控え、一時は棚上げしていた釣魚台列島占拠計画が再び浮上したのである。

12月15日、沖縄県知事・奈良原繁は釣魚台列島付近海域の取締りを理由に、内務大臣・野村靖に「久場島魚釣島へ所轄標杭建設之義上申」を提出、書中で旧事に触れた上で「その当時と今日とは大いに事情を異にする」と強調した。12月27日、野村靖は同上申書を閣議に提出したが、これに先駆けて、野村靖はこの件につき、外務大臣の陸奥宗光と協議しており、その書中にも「今日と当時とでは事情は異なる」と述べている。この二つの文書は、日本がまさに戦争の勝利を収めようとしている局面にあることを示している。ここから分かる通り、釣魚台列島領有と甲午戦争は無関係であるとする日本政府の主張は、事実ではない。

1985年1月14日、「馬関条約(下関条約)」が締結される前、日本の内閣総理大臣伊藤博文は、釣魚台に国標を設置する件について閣議を開き、「標杭建設の件…これを許可する」との閣議決定がなされた。その後、日本政府は行政区分上は沖縄県石垣市に属するものとした。これが「日本による釣魚台列島窃取・占拠」のプロセスである。ついでに挙げれば、沖縄県は当時「国標」を設置せず、1968年に関連する論争が巻き起こった後に急遽設置したのである。

四、日本が釣魚台列島を「尖閣列島」と改名したことの影響

日本が秘密裏に釣魚台列島を占拠したことを、戦争中の清朝は知らず、その後日本と清朝は台湾割譲について交渉を始めた。釣魚台列島は清朝が割譲に同意しない範囲ではなかったため、割譲範囲の交渉では釣魚台列島を含む台湾東北各島嶼には注目せず、むしろ重点を澎湖以西の福建に近い島嶼に置いた。

4月17日、清朝は日本と「馬関条約(下関条約)」を締結し、「台湾全島およびその付属諸島嶼」が日本に割譲された。これにより、以後数十年にわたって釣魚台列島は中国人の視野に入ることはなかった。さらに、日本は甲午戦争(日清戦争)勝利から5年後の1900年、釣魚台列島の名称を「尖閣列島」へと変更した。1912年に成立した中華民国は統治範囲が台湾には及んでいなかったため、20世紀の初めから日本が「尖閣列島」という名称を使うことに特に気を配らなかった。

1945年、日本は第二次世界大戦に敗れ、「馬関条約(下関条約)」は効力を失い、日本は琉球だけではなく台湾からも撤退した。連合国(米国)は日本が明け渡した「沖縄県」の行政管轄範囲で琉球を接収し、そこには「尖閣列島」も含まれていた。米国は「沖縄県」を「琉球」へと改めたが、「尖閣列島」中の島嶼の名称が、18世紀以降に欧米の宣教師や航海家、海軍などによって描かれた中国およびその周辺の地図において、閩南(福建南部)語の発音で台湾属島TiaoyusuまたはHaopinsuと書かれていたことに気付かず、日本語発音のUotsuri-jima(魚釣島)という島名を使用し続けた。

一方、中華民国も、日本による植民地統治時の台湾総督府の管轄下にあった範囲で台湾を接収し、当時はそこに含まれていない「尖閣列島」が明・清代に長年にわたって知られていた「釣魚嶼」または「釣魚台」であることに、すぐには気づかなかった。しかし、戦後初期の中華民国駐日代表団の内部報告書では、すでに「尖閣列島」が日本に帰属することの妥当性に対する疑問が出始めている。そして1950年代から、中華民国は大陸棚の権益に注意を向け始め、その過程で「尖閣列島」の帰属問題がついに浮上したのである。

1968年2月、中華民国外交部条約局の副局長・国剛が提出した内部報告書には「我が国の海底資源開発の行動は、尖閣諸島領有問題の完全解決を待つべきではない」とあり、当時、外交部は両者を一括に処理するのではなく、個別に対処すべきであると建議していることがわかる。その直後すなわち1960年代末に「東シナ海大陸棚海底資源問題」が発生すると、東シナ海の地質・地理および多数の無人島に目が注がれることとなり、台湾はこれによって改めて「尖閣列島」を認識する機会を得、多くの学者が、釣魚台列島が台湾の属島であることを示す歴史的証拠を次々と発見することとなる。

五、「カイロ宣言」「ポツダム宣言」「中華民国と日本国との間の平和条約(日華平和条約)」を巡る論争

台湾は中華民国が領有し有効に支配する領土である。中華民国は、「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」「中華民国と日本国との間の平和条約(日華平和条約)」が、台湾および釣魚台列島を含む台湾の付属各島嶼が戦後一律に中国に返還されるべきとする国際法上の根拠であると主張している。国際社会が「尖閣列島」はすなわち釣魚台列島であることを明確に認識していない状況の下、琉球列島米国民政府は1953年12月25日の「布告第27号」において、釣魚台列島を琉球とともに米国の統治下に置くとした。

しかし1971年、米国に対する中華民国からの抗議の照会に対して、米国は釣魚台列島の行政権を日本に移行するが、これは主権の移転を意味しないと明確に示し、主権をめぐる争いは中華民国と日本との間で協議して解決すべきであり、米国は領土争いにおいて中立の立場を保つと回答してきた。台湾の中央研究院近代史研究所檔案(公文書)館および米国国立公文書館所蔵の機密解除された外交文書を見ると、米国が釣魚台列島の主権帰属問題について「中立」の立場を選択した主たる理由は、同じく同盟国である中華民国の利益に配慮したためであることが分かる。

サンフランシスコ講和会議に招かれなかった中華民国は、「サンフランシスコ平和条約」に調印できず、講和会議において異議を唱える機会を持たなかった。翌1952年に中華民国は日本と「中華民国と日本国との間の平和条約(日華平和条約)」を締結した。同条約には「サンフランシスコ平和条約」第三条における琉球信託統治の規定はないが、「中華民国と日本国との間の平和条約」第四条には「中華民国と日本国との間で1941年12月9日以前に締結されたすべての条約、協約及び協定は、戦争の結果として無効となったことが承認される」と定められている。この条文により、「馬関条約(下関条約)」は無効となったのであり、中華民国は、釣魚台列島が台湾およびその付属島嶼とともに中華民国に返還されるべきものと主張している。しかし、日本側は「尖閣列島」と「馬関条約」は無関係であると主張し、さらに「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」における関連条項も、「尖閣列島」が日本の主権を離脱することには触れていないと強調している。

1945年から1960年代末まで、米国が琉球を統治していた期間中、台湾の漁船は長年にわたって釣魚台列島海域で操業しており、米国あるいは琉球当局からの干渉を受けることはなかった。

六、東シナ海海底資源争奪戦と、釣魚台領有に関する四者の主張

1968年、国連のアジア極東経済委員会(ECAFE)の調査とその報告がきっかけとなって、各方面が東シナ海大陸棚の海底資源を重視し始めた。中華民国が先頭を切り、1969年7月17日に正式に「我が沿海大陸棚の天然資源探査および開発における主権行使声明」を発表。これは、台湾がその後、さらに一歩進んで釣魚台列島における主権を主張する基礎となった。日本、琉球、韓国も相次いで探査を計画し、東シナ海の資源をめぐる競争は熾烈化していく。1970年12月21日、「中華民国、日本、大韓民国の三国委員会」による「海洋開発研究連合委員会」が東京で開催され、領有権問題および大陸棚主権問題は棚上し、共同で東シナ海の資源開発を行なうというコンセンサスを得た。

東シナ海の海底資源をめぐる競争がついに釣魚台列島領有権の争いを巻き起こし、これを背景に、各政府が釣魚台列島の主権に関するそれぞれの主張を相次いで纏めるに至った。

琉球はまだ米国の統治下にあったが、1968年以降、すでに相当な自治権を得ていた。琉球政府が発表した釣魚台領有権に関する主要な公式文書は二つある。一つは琉球立法院が1970年8月31日に採択した「尖閣列島の領土権防衛に関する要請決議」で、「決議第十二号」および「決議第十三号」が含まれる。第二は、翌9月1日の琉球政府声明「尖閣列島の領土権について」である。この領有権に関する主張が急遽発表されたのは、台湾が米国の石油会社と共同で採掘するという情報が表沙汰になったからである。

琉球の声明が台湾に向けられたのに対し、台湾は1971年6月11日に「琉球群島および釣魚台列島に関する中華民国外交部声明」を発表した。これより遅れて中華人民共和国もついに同年12月30日に「釣魚台の主権に関する声明」を発表する。1972年3月8日、日本政府も時間をかけて準備した「尖閣諸島の領有権問題について」とする文書を発表した。

台湾と中国大陸は、2012年に相前後してそれぞれ見解書「釣魚台列島は中華民国固有の領土である」と白書「釣魚島は中国固有の領土である」を新たに発表した。両者の内容を見ると、「領有権主張」の根拠と日本の主張に対する反論には共通点が多い。前者の主たる内容は以下の通り。第一に、双方とも「釣魚台列島は我が国の先人が最も早く発見し、命名し、利用してきた」としている点。第二に、歴史に関する部分では、双方ともに中国が釣魚台列島列島を領有する歴史的根拠を、明・清代の中国と琉球との密接な「冊封--朝貢関係」と結び付けている点。第三に、釣魚台列島は琉球の版図の範囲ではないという点。第四に、双方ともに明・清代の海防範囲に釣魚台が含まれていたという点。第五に、民間では主に漁民が長年にわたって釣魚台列島を利用してきた点を挙げている。日本の主張に対する反論の部分としては、第一に、日本が主張する「先占」の合法性について、第二に、日本の「窃取・占拠」行為が甲午戦争(日清戦争)の勝利を目前に行なわれた点である。また、台湾も中国大陸も、釣魚台列島は「馬関条約」によって割譲された台湾の付属島嶼の範囲内であり、したがって第二次世界大戦後には台湾とともに中華民国に返還すべきである、としている。

一方、台湾と中国大陸の立場には相違点もある。第一に、中華民国の方は釣魚台列島が清朝の版図に入っていたことを強調しているが「行政管轄」という表現は使用していないのに対し、中国大陸の方では、直接この概念を用いている。第二に、戦後の琉球と釣魚台列島に対する米国の管轄について、北京当局は否定的な態度を採り、「不法かつ無効」と述べているのに対し、中華民国は否定的態度は採っていない。

琉球と日本の声明の内容も似通っている。最大の共通点は釣魚台列島の領有権を1895年1月14日の日本帝国の内閣決議にさかのぼっている点で、いずれも同地がそれまで「無主地」であったと主張している。また、琉球の声明では、日本が1895年に「尖閣列島」を領土に「編入」した後、琉球の行政管轄範囲の一部分としてきたことに関して多くの証拠を挙げており、これによって釣魚台列島が琉球に属することの合法性を強調している。

一方、国際法上の観点を重視する日本の声明は、「尖閣列島」は「馬関条約」により割譲を受けた「台湾とその付属島嶼」には含まれておらず、また「サンフランシスコ平和条約」第二条に基づいて日本が放棄した領土にも含まれていないとしている。さらに、台湾と中国は1970年後半に海底資源問題が浮上してはじめて異議を唱えたと強調している。

七、1972年以降の北京当局と日本の対応の同異

1972年9月、日本と北京当局が国交を結び、釣魚台列島をめぐる争議の主役は「台北--東京」から「北京--東京」へと変わった。1972年以降の40年の間で、釣魚台列島問題に関する北京の対応は大きく変化した。

前半の20年、北京当局の基本的な態度は「大事を小事と化す」というもので、ひいては「関心さえ示さない」という社会的雰囲気が生まれた。周恩来と田中角栄は、国交正常化交渉において「争議を棚上げする」という暗黙の了解を持つに至り、1978年末に東京を訪問した鄧小平も、問題は「次の世代」の処理に任せると強調した。中国共産党指導者のこうした「大局観」の影響で、日本は今日に至るまで、後に筆者が指摘するところの「三つのノー」政策、すなわち「自衛隊を駐留させず、島を開発せず、海底資源を開発しない」という政策を固守することとなった。しかし、それが1990年代になって、双方の暗黙の了解と自制が揺らぎ始める。

政治と社会の「右傾化」により、日本は2010年、釣魚台問題に関して正式に「尖閣諸島に領土問題は存在しない」「中日間に領土問題を棚上げするという合意は存在しない」という、新たな主張を打ち出し、さらに「南西諸島」の防衛強化を進め、直接北京当局と実力を競い合う新たな局面を迎えた。2012年9月には、日本政府が釣魚台列島を「国有化」したことに対し、台湾と中国大陸では激しい反発が起き、中国大陸では第二次世界大戦終結以来最大規模の反日デモが行われた。双方の関係は1972年の「関係正常化」以来、最悪の状況となり、東シナ海の緊張も次第に高まった。

北京当局はその経済発展により、外交面でも「実力を隠して力を蓄える」状態から「為すべきことは為す」という態度へ変わり、釣魚台列島の領有権問題についても「控え目な対処」から「ホットな実力行使」の試みへと変わっていった。1992年、全国人民代表大会常務委員会は「領海および接続区域法」を採択し、釣魚台列島をその領海範囲とし、日本が「中国が先に現状を変えた」と非難する理由となった。2004年、中国大陸で初めての「保釣運動」が起り、大陸の運動家が初めて釣魚台に上陸した。そして2008年12月8日、北京当局の「海監46号」と「海監51号」が初めて釣魚台の12海里内に入った。2010年には「中日釣魚台船舶衝突事件」が起き、北京当局は日本が言うところの「実力による現状変更」の行動を採り、漁業監視船を釣魚台列島海域でパトロールを開始させた。ただ、その後の海洋監視船と後に統合した海警巡視船による同海域のパトロール「常態化」傾向がより明らかになったのは、2012年9月11日に日本が釣魚台3島を「国有化」してからのことだ。そして2013年11月、北京当局が一方的に「東シナ海防空識別圏(ADIZ)」を設定したことは、米国、日本、台湾、韓国などの反発を買い、地域の一層緊張が高まった。

八、『東シナ海平和イニシアチブ』と台湾の役割

1960年代末に釣魚台列島をめぐる争いが巻き起こって以来、中華民国は率先して「主権は我が国に属するが、争議は棚上げし、平和と互恵の原則の下、共同開発する」という政策を打ち出し、「国連憲章」および国際法の規定に従って平和的に争議を解決したいとしてきた。日本との交渉においては、争議を棚上げし、共同開発し、資源を共有するという原則で、主権を維持し、漁業権を保障し、争議解決の目的を達成したい考えだ。この主張は、北京当局のその後の主張にも影響を及ぼしてきた。

1996年9月、李登輝総統在任中に「釣魚台列島主権争議案対応」のために各省庁合同で「釣魚台問題作業部会」が設置され、「四つの原則で釣魚台列島の主権に関わるすべての問題を解決する」ことを決定した。四つの原則は以下の通りである。一、我が国が釣魚台列島の領有権を有する主張を堅持する。二、平和的かつ理性的な方法で処理する。三、北京当局と解決のための協力はしない。四、漁業者の権益を優先的に考慮する。この中で初めて発表されたのは、北京当局と協力せず、漁業権を優先させる、の二点である。この新たな政策は、後の陳水扁政権および馬英九政権にも引き継がれ、ポスト冷戦時代における中華民国の釣魚台列島政策の基礎となった。

馬英九政権期は、東シナ海情勢がまさに悪化の一途をたどってきた時期に当たる。この間、釣魚台列島をめぐる衝突には新たな特徴が現われ、それが中華民国の外交環境に直接衝撃をあたえた。

2012年8月5日、東シナ海の緊張に対応するため、馬英九総統は「東シナ海平和イニシアチブ」を打ち出し、各当事者に以下の事を呼びかけた。一、自制し、対立を高める行動に出ないこと。二、争議は棚上げし、対話によるコミュニケーションを放棄しないこと。三、国際法を遵守し、平和的方法で問題を処理すること。四、コンセンサスを見出し、「東シナ海行動規範」の策定を検討すること。五、メカニズムを構築し、東シナ海の資源を共同開発すること。具体的なステップとしては、「三組の二者間対話」から「一組の三者間協議」へと二段階に渡って進めるもので、「対抗から対話へ」「協議をもって争議を棚上げする」という方法で、東シナ海資源の共同開発の可能性を探るというものである。

2013年4月10日、台湾は日本と第17回漁業交渉を行ない、正式に「台日漁業協定」に調印した。この協定は、平和的に争議を解決するという「東シナ海平和イニシアチブ」の精神を具現化したものと言えるが、「両岸が連携して釣魚台を守るべき」とする中国大陸の反発を招いた。

九、「平和の海」回復は不可能ではない

釣魚台列島は今日も東シナ海の火種であり、北京当局と日本との間では、今も不慮の衝突を避けるメカニズムは構築されていない。東シナ海でひとたび衝突が起きれば、必ずや複雑な東アジア国際関係に影響を及ぼし、ひいては地域の安全と秩序を揺るがす可能性もある。しかし、この120年を振り返ると、その間にもさまざまな衝突があったが、大事を小事へと変えて冷静に処理されてきたことの方が多かった。例えば、1970年には台・日・韓で一度は「共同開発」のコンセンサスが得られ、1972年から北京当局が「争議を棚上げ」し、日本は「三つのノー」政策を固守し、また2012年には馬英九総統が潜在的な衝突に対応して「東シナ海平和イニシアチブ」を打ち出すなど、いずれも釣魚台列島の領有権をめぐる争いを鎮静化し問題の解決につながる東洋の智慧と言える。

釣魚台列島は120年前までの長い歳月において、常に中国と琉球を結ぶ航路の目印であり、東シナ海の平和と友好の象徴であった。事は人が為すものである。東シナ海を再び「平和の海」にすることは決して不可能ではない。

(中国語原文「釣魚台列嶼爭議的形成過程」は2015年6月に中華民国外交部HPに掲載、初稿‹釣魚台列島争議120年›は『明報月刊』2015年3月号に掲載。なお、本稿の観点は著者個人のもので、中華民国政府の立場ではない。)