馬英九総統が「釣魚台列嶼(尖閣諸島)問題国際学術シンポジウム」の来賓と会見
馬英九総統は9月2日夜、総統府において、「第3回釣魚台列嶼(日本名:尖閣諸島)問題国際学術シンポジウム」に出席した来賓らと会見し、「釣魚台列嶼の問題は国際法の問題のみならず、地域の安全と資源開発に関するものでもある。『第3回釣魚台列嶼問題国際学術シンポジウム』は、対話の範囲を拡大し、日本、中国大陸、韓国などからの専門家の出席を広く招請したものであり、きわめてプラスの発展となった」と述べた。
さらに、「世界の多くの地域において、領土、海域の線引き、資源についての争議が存在しているが、その中の一部には、話し合いが成功した例もある。東南アジア各国も歴史的な経験の中から、問題解決の方策を見出すことができるものと確信している」と期待の意を示した。
また、「釣魚台列嶼に関する最も古い中国の文献は、1403年の『順風相送』であり、明・清両朝の時代に、新王に封ずる詔書の勅使を幾たびも琉球に派遣したが、その勅使の訪問記録の中で、いずれも釣魚台列嶼の地理上の位置が明確に記載されている。また、明朝の時代に倭寇と戦った名将である兵部尚書の胡宗憲が、釣魚台列嶼をわが国の海上防衛の領域に入れている。さらに、清朝の御史の黄叔璥が著した『台海使槎録』には「山后大洋、北有山名釣魚台、可泊大船十余(山の裏側の大海、北には釣魚台という名の山があり、大型船十余隻が停泊できる)」と記されている。その後、噶瑪蘭庁(現在の宜蘭県)の庁史にもこの記載が引用されており、明・清両朝はすでに同諸島を海上防衛の範疇に入れていたことが明確となっている。そのほかにも、わが国の漁民は風を避けるためなどの理由で、長年にわたり同諸島海域を使用していた。そのため、歴史上、地理上、地質上、対外関係などの観点から、釣魚台列嶼はもとよりわが国固有の領土なのである」と説明した。
さらに、馬総統は「日本は19世紀に同諸島に対し、高い興味を示すようになった。1895年1月に日本の内閣は、同諸島を日本に併合する決定をしたが、これについての対外的な発表は行なわれず、1902年になりようやく公布した。清朝は1895年4月に日本と馬関(下関)条約を締結し、台湾、澎湖などの地を割譲し、釣魚台列嶼もこれにより日本に割譲されたが、1945年に日本がわが国に投降した時に、おのずと釣魚台列嶼も一緒に返還したことになる」と指摘した。
釣魚台列嶼の主権問題に直面していることに対し、馬総統は「わが国政府の立場はきわめて明確であり、中華民国は釣魚台列嶼の主権を有しているということである。しかし、わが国は、各国が『争議を棚上げし、共同で開発し、資源を共に分かち合う』べきであるとも主張している。今後、このような方向で解決できるならば、地域の平和と安定に対しても、きわめて大きな貢献ができるものと確信している」との考えを示した。
また、「私は以前、保釣(釣魚台列嶼の主権護持)運動に参加したことがあるが、この問題は数十年にわたり一向に変化が見られない。国家および民族の領土と主権は『本質に関わる根本的な問題』であり、いかなる変更をもすることはできない。しかし、私は歴史的な問題は一貫して「事実は事実としてそれ自体を評価し、恩と怨みを明確に分ける」態度を持っているので、釣魚台列嶼についての問題は、わが国と日本との友好関係に影響を及ぼすものではない」と強調した。
【総統府 2011年9月2日】
写真提供:中央社