馬英九総統が国際学術シンポジウムで釣魚台列島問題を語る
馬英九総統は4月17日、中央研究院で開催された「多元的視野でみる釣魚台問題の新論」国際学術シンポジウムに出席し、釣魚台列島(日本名:尖閣諸島)に関する争議の発展過程を4つの歴史的段階から説明し、関係各方面が「東シナ海平和イニシアチブ」および「東シナ海空域安全声明」に基づき争議を解決するよう呼びかけた。以下は馬総統の講演の要旨である。
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今日(4月17日)は『下関条約』締結119周年の日にあたる。また、日清戦争の発生から満120周年となり、その間、釣魚台列島の争議は時間の推移とともに消えることはなく、逆に地域の平和に対する重大な脅威となっている。
1971年、私は台湾大学法律学科3年生のとき、保釣(釣魚台奪還)運動に参加した。その10年後、私は米国ハーバード大学で博士論文を執筆した際、一部の章で釣魚台列島における境界の争議について探究した。この40年あまりの間、国家主権を護持する私の決意と意志が揺らいだことはない。特に中華民国は平和を愛する国であり、再び暗雲立ち込める地域情勢に対して、我が国は実務的な姿勢で解決方法を探し求め、地域の平和を促進していく責務がある。
釣魚台列島の争議の発展過程を4つの歴史的段階から見ていくと、まず第1段階は、1895年以前であり、この段階においては釣魚台列島が「無主の地」(terra nullius)だったのかを探究したい。文献記録によると、釣魚台列島は明朝の1372年(洪武5年)に発見、命名され、その後、明朝兵部尚書の胡宗憲により編纂された『籌海図説』の中でも、釣魚台列島は中国が倭寇の侵入に抵抗する海防体系にあることが明確に記載されている。清朝は1683年(康熙22年)に釣魚台列島を正式な国土に組み入れ、福建省の下の台湾府に隷属するようになった。1812年(嘉慶17年)より台湾府噶瑪蘭庁の管轄となり、『台海使槎録』や『全台図説』などの文献にも当時の清朝が釣魚台列島をすでに実効統治していたことが記録されている。したがって、釣魚台列島は「無人島」ではあったが、「無主の地」ではなかった。
日本は明治維新の後、釣魚台列島を開発しようとして、1885年より人を派遣して同列島を調査し、国標を立てることを検討し始めた。その後、清朝が日清戦争で敗れたことから、日本の当時の伊藤博文・内閣総理大臣が1895年1月14日に「閣議」を通して釣魚台列島の編入を決定した。但し、この決定は正式には発表されなかった。それは、1879年に日本の天皇の飭令で琉球群島が併呑されたのとは異なる。
日本政府は国際法の「先占」原則に基づいて日本が釣魚台列島を編入したとの認識を示しているが、この原則は同列島が「無主の地」であって初めて効果を持つものである。釣魚台列島は1895年以前にすでに中国の領土および台湾の付属島嶼であったので、日本が同列島を編入する行動は「初めから無効」なのである。
次に、第2段階は日本が1895年から1945年まで釣魚台列島を統治していた期間である。この段階においては、日本政府が同列島を統治する法的根拠がどこにあるのか探究したい。歴史資料の記載によると、日本は『下関条約』第2条の「台湾全島及び其の付属島嶼(の割譲)」に基づき、釣魚台列島の統治権を取得した。
第3段階は、1945年に日本が第二次世界大戦で投降してから1972年までの期間である。当時、1943年の『カイロ宣言』および1945年の『ポツダム宣言』と『日本降伏文書』には「日本が中国より窃取した東北四省(満洲)、台湾、澎湖島などの地域を中華民国に返還すること」が明記されている。また、1952年に中華民国と日本が調印した『中日和約』(日華平和条約)には、「1941年12月9日以前に日本国と中国との間で締結されたすべての条約、協約及び協定は、戦争の結果として無効となった」と規定されており、『下関条約』はこれを受けて失効し、日本が取得していた釣魚台列島の法的根拠も喪失した。したがって、釣魚台列島は1945年12月25日に中華民国に返還されるべきなのである。
第4段階は、1972年に日米が『沖縄返還協定』に調印してから今までである。実際には、米国が第3段階の期間において釣魚台列島の信託統治を開始したが、当時は同列島に対して有していたのは「施政権」のみであり、「主権」ではなかった。さらに米国は1971年5月に釣魚台列島の「施政権」を日本に引き渡すことを正式に我が国に照会しており、これによって中華民国の同列島に対する「主権」は影響を受けることはなかった。しかも、米国は「(釣魚台列島の)領土問題は双方が各自解決すべきである」と強調していた。このことから分かるように、米国は釣魚台列島に争議が存在することを承認していたのみならず、返還したのは「施政権」であると認識しているのである。
1968年に「国連アジア極東経済委員会」が釣魚台列島を調査し、その付近の海域に豊富な石油ガス資源が埋蔵されていることを発見して以来、周辺の近隣国が同列島に対する主権を主張するようになり、その情勢が今、より一層激しくなってきている。その中でも、日本政府が2012年9月11日に同列島の国有化を発表したことから、中国大陸の重大な反発を引き起こし、中国大陸側は巡視船、漁政船、軍機などの派遣を開始し、同列島付近の海域を巡視するようになり、昨年11月23日には「東シナ海防空識別圏」(ADIZ)の設定を発表した。
我が国は東シナ海の周辺国として、この情勢を深く懸念している。また、米国は「日米安保条約」第5条に基づき日本の領土を防衛することになっているが、釣魚台列島の争議は、世界最強の経済・軍事大国を想像もつかないような戦争に巻き込みかねない。そこで私は2012年8月5日に「東シナ海平和イニシアチブ」を提起し、「主権は分割できないが、資源は分かち合える」の理念を強調し、関係各方面が緊張を緩和し、平和的に話し合うよう呼びかけた。そして、日本政府と漁業交渉を再開し、昨年4月10日に『台日漁業協議』に調印することができた。これにより、台湾の漁民は台湾本島の2倍の面積の水域を漁場として獲得できた。さらに重要なのは、同協議の「ディスクレーマー(維権)条項」(without prejudice)により、台日双方は海洋法の下の主張が影響を受けることなく、「主権は譲歩せず、漁業権は大きく進歩し、争議は大幅に減少」の成果を得ることができたことであり、釣魚台列島付近の海域はここ40年間で最も穏やかな時となったのである。
中国大陸が東シナ海にADIZを設定したことについては、私は今年2月26日に「東シナ海空域安全声明」を提起し、関係各方面が重複する区域について協議を行い、平和的な対話を展開すると同時に、地域多者間協議メカニズムの設立を望み、「東シナ海行動準則」を制定することにより争議を徐々に縮小させていくことを呼びかけた。
「東シナ海平和イニシアチブ」と「東シナ海空域安全声明」は、いずれも「緊張を緩和し、対話を増やし、平和的な方法で係争を解決する」との目標を達成するとともに、「主権は分割できないが、資源は分かち合える」の理念を貫徹するためのものであり、とりわけ釣魚台列島は中華民国固有の領土、台湾の付属島嶼であり、政府は一貫して「主権は我が国にあるが、争議を棚上げし、平和互恵、共同開発」の理念を堅持し、なおかつこの理念を東シナ海および南シナ海などの地域にも適用している。台湾は東アジアの中心に位置しており、東シナ海と南シナ海をつないでいるのみならず、地域経済統合および地域安全保障の中心でもある。したがって、我が国が周辺海域の緊張情勢に向き合う際には、異なる考え方を包容すべきであり、それにより問題の複雑性を小さくし、外交手段を通して問題の解決を図ることにより、東シナ海を真の平和と協力の海にすることができるのである。
【総統府 2014年4月17日】
写真提供:総統府