台日の深い友情示す、黄土水の作品『山本悌二郎銅像』が新潟県佐渡市から高雄市へ
台湾から日本に留学して美術を学び、「帝展」(現在の日展)入選を果たした台湾人芸術家、黄土水(1895-1930年)の作品『山本悌二郎銅像』が日本の新潟県佐渡市から高雄市へ移設され、高雄市立美術館(台湾南部・高雄市)で28日、初めてお披露目された。
山本悌二郎(1870-1937年)は佐渡出身の政治家で、農林大臣を務めたほか台湾製糖株式会社(台湾糖業股份有限公司の前身)の設立に関わり社長も務めた人物。『山本悌二郎銅像』は、もともと高雄市の橋頭糖廠(=製糖工場)に設置されていたが、1959年に山本の故郷である佐渡島に移設。このほど各方面の働きかけの結果、再び台湾に移設され、高雄市立美術館が収蔵することとなった。
『山本悌二郎銅像』はこれまで佐渡市の真野公園に設置されていた。台北駐日経済文化代表処の謝長廷代表(=駐日大使に相当)の強い働きかけに加え、高雄市の陳其邁市長が佐渡市長に直接手紙を送るなどして努力を重ねてきた。28日に行われたお披露目式には、日本台湾交流協会高雄事務所(台湾における日本総領事館に相当)の古田清史副所長、中華民国(台湾)文化部の李静慧政務次長(=副大臣)、高雄市の陳其邁市長、台北駐日経済文化代表処の謝長廷代表らが立ち会った。
謝長廷代表によると、当初は佐渡市から銅像を借り受け、レプリカを制作することで交渉を進めていた。その後、高雄に持ち帰って収蔵する考えを示したところ、佐渡市長、議会、市民から賛同を得ることができた。山本悌二郎先生顕彰会の会長からは、「山本悌二郎は大臣や衆院議員を務めたが、彼の一生で最も楽しく、最も活躍したのは台湾にいた時期だった。だからこの銅像は台湾に返すべきだ」と言われたという。
銅像移設には重機を使い、高い技術を使って銅像と台座を分離させ、佐渡島から新潟市内まで船で運び、新潟から東京までは陸路で運んだ。謝長廷代表は、大空を飛ぶカモメがその様子を見送ってくれたこと、東京から飛行機に載せて台湾へ運ぶ際には、誰もが感動の涙を流し、大きな達成感があったことなどを明かした。
高雄市の陳其邁市長は、「この銅像が意味するのは、山本悌二郎の台湾に対する貢献だけではない。作者である黄土水は台湾美術のパイオニアだった。また、(山本悌二郎が建設地を選んだ)橋頭糖廠は高雄の都市計画の先端を行くもので、工場周辺には職員宿舎、商業施設、レジャー施設などが生まれ、高雄の近代化に大きく貢献した。高雄の100年の歴史の中には、台湾と日本の強い絆と感情が息づいている。不可能ともいえるこの任務を成し遂げたすべての人に感謝したい」と述べた。
高雄市立美術館は今後、『山本悌二郎銅像』のレプリカを2つ制作する。そして、1つを橋頭糖廠社宅事務所跡地に設置し、もう一つを佐渡市の真野公園に寄贈する。オリジナルは高雄市立美術館が収蔵するという。
■山本悌二郎について
山本悌二郎は台湾製糖株式会社の設立に参画。橋頭に台湾初となる新式の製糖工場を設置することを自ら決定。工場建設に参与しただけでなく、視察のためハワイへ渡り、製糖の原料や完成品の運搬のため機関車を導入することを決定。これが現在の「台糖小火車(狭いレールを走る小型機関車)」の基礎を作った。高雄港一帯の巨大倉庫群の管理を任されていたこともあり、高雄の産業発展に大きく寄与した。
1927年の田中義一内閣の誕生に伴い、山本は農林大臣に任命される。入閣のため、27年に及んだ台湾生活にピリオドを打って帰国。台湾製糖株式会社はその貢献を称えるため、彫刻家の黄土水に銅像の制作を依頼した。完成した銅像は1929年、橋頭糖廠社宅事務所に設置された。戦後は回収され、長く倉庫に眠っていた。1959年、日本側からの要望を受け、銅像は北海道から台湾へ渡った最初の製糖機器とともに日本へ返された。その後は現在に至るまで、山本の故郷である新潟県佐渡市が収蔵していた。
Taiwan Today:2022年8月29日
写真提供:陳其邁市長フェイスブックより
台湾人芸術家、黄土水(1895-1930年)の作品『山本悌二郎銅像』が日本の新潟県佐渡市から高雄市へ移設され、高雄市立美術館(台湾南部・高雄市)で28日、初めてお披露目された。高雄市の陳其邁市長(左から4人目)、台北駐日経済文化代表処の謝長廷代表(右から2人目)も駆けつけた。
